ブッダ(お釈迦さま)は、今から2500年くらい前に生きていた人です。生まれたのは今のネパール、生涯を過ごしたのはインドでした。ブッダがいた場所には、聖地として今でも世界中のたくさんの人が訪れています。
今回は、お釈迦さまが送った生涯のことを、わかりやすくお話します。
ちなみに…。「ブッダ」という名前は「悟りをひらいた人」という意味で、ほんとうはゴータマ・シッダールタというお名前があります。ここではあえて小さなころから「ブッダ」という名前でお話に登場しています。
はじめに – わたしの大好きな人、ブッダ
個人的な話になりますが、私はブッダが大好きです。こんな風にいうと「崇高なお釈迦さまに向かって、失礼だぞ!」とお叱りを受けそうですが…それでも好き。
それは「仏教で信仰される存在」でも「釈迦如来さま」という仏像とも少しちがいます。(もちろん仏像も大好きです)私たちと同じように、生きていたひとりの人間としてのブッダが、大好きなのです。
私は、ブッダに大切なことをいっぱい気付かせてもらいました。ブッダとの出会えたことによって、「生きること」にしっかり向き合えるようになりました。ブッダに会えてよかった!と心から思っています。
ひとりの人間として、「自分」を生きて、「しあわせに生きる知恵」を伝えた続けたこと、人間の弱さにも寄り添いながら、悩んでも悩んでも、決して諦めない強さ。同じひとりの人間として、私たちもひとりひとり「自分」を生きる勇気がわいたらステキだなぁ。そう思って、ブッダの人生のおはなしを書くことにしました。
「どこかの選ばれた特別な人」ではなく「あなたと同じ、どこかで生きたひとりの人」として、ブッダのことをすこし覗いてみてほしいのです!
ブッダが伝えたのは、とてもカンタンな、カンタンがゆえに実践するにはすこし勇気がいるけれど、誰にでもできる「しあわせの種」です。
よく生きた「人間の先輩」が気付いたその種は、今を生きるわたしたちにとっても、同じように大切なものです。すこしでも、みなさんの「しあわせに生きるヒント」になりますように。
1. 願いは、本当の世界をみること
少年ブッダは、シャカ族にうまれた王子さまでした。お母さんの顔を知りません。ブッダのお母さんは、かわいい息子を生んだあとすぐに亡くなってしまいました。
王子さまとしての日常は、モノに不自由することはなかったけれど、どこか退屈で、お城の中という守られた世界に、いつしか違和感を抱くようになっていました。王さまも家来も、みんながブッダにはみせないようにしていた、お城の外の世界。
少年ブッダは知っていました。見たことはないけれど、壁のむこうの世界こそ、人間が生きている「本当の世界」だって。見たい。ひと目でいいから、少しでいいから。本当の世界に触れてみたい。
少年ブッダは、たった1日だけ壁のむこうの世界へいくことを許されました。やった!ずっとみたかった本当の世界だ!
でも。
壁のむこうの世界は、思っていたよりずっと「ふしあわせ」でした。生きている人は、生きることに疲れ、うなだれている。死んでしまった人もいる。病気になって、死をみつめている人もいる。
「くるしい、くるしいよ・・」
人々のすがたから、そんな声がきこえてきました。みんな、苦しんでいる。そのことが少年ブッダの心に突きささりました。
2. しあわせの種をもとめて・・・
おかしい!
生きるって苦しいことなの?
死ぬまでずっと苦しまなければならないの?
ぼくたちは、苦しむために生まれてきたの?
きっと、いや絶対ちがう!そんなはずない。
そう信じて、少年ブッダは大きな決断をしました。
「生きているすべての人がしあわせになる方法を、みつける!」
みんなが苦しまずに生きられるように。
今はまだ見当も付かないけれど、きっとあるはずの「しあわせの種」を手にするため、ブッダは旅にでました。
「すべての人がしあわせになれる方法」そんな夢みたいなもの、本当にあるのでしょうか?誰も信じなかったけれど、ブッダだけはずっと信じつづけました。
「しあわせ」は、限られた人だけが手にできるものではない。どんな人でも、この世に生きているどんな人でも必ず「しあわせ」を手にできるはず、だと。
その方法はどこにあるんだろう?
一体どうやって見つけたらいいんだろう?
アッという間に月日はたってしまいました。
苦しい修行の先に何かがあるかもしれないと思って、体を痛めつけたりもしました。でも、限られた人にしかできない厳しい修行の中に「しあわせの種」は見つけられませんでした。
「ちがう。ここに答えはない。」
ボロボロになってしまった体を、必死で支えながら山をおりてきました。もう、ヘトヘト。川で体をキレイにして、近くに住んでいた少女がつくってくれたミルクでできたおかゆを食べて、ようやく元気がもどってきました。
「ゆっくりでいい。ふつうでいいんだ。」
そう言いきかせながら歩いていると、大きな木にたどり着きました。
3. みつけた!しあわせの種
大きな木の下は、とっても気持ちのいい場所でした。お日さまがサンサンと照らす昼間でも、ここだけはひんやりと心地いい空気で包まれるようです。
その木の下にブッダはすわることにしました。そして、目を閉じて、聞こえてくるすべての音に耳をすませました。
風の音、木々のざわめき、鳥のなき声、大地のゆれ。
自分の呼吸、心の声、血の流れる音・・・。
「あぁ、気持ちいい・・」
まるで自分という人間が、自然の一部になったような感覚でした。
「しあわせだなぁ」と、心の底から思えました。自然と自分以外、なにもない、誰もいないその場所で。
「ああ、そうか!そういうことだったのか」
ここに答えがあったのです。生きている人、みんながしあわせになる方法、それはとてもカンタンなことでした。
生きる。ただ、それだけだったのです。
この世に生まれた自分だけがもっている、ひとつひとつの命を、ただ生きる。自然の一部でもある自分を、しずかに、ゆっくりと、自然を感じながら生きること。
「みつけた!」
4. ただ生きるしあわせ を 伝えよう
ただ生きよう。
何かをどん欲に求めつづけないように。
今を否定して、いつかを夢みつづけないように。
自分から目を反らして、モノにばかり目をやらないように。
今ここにいる自分。それだけでしあわせ。
そう思えることができたら、きっとたくさんの人が苦しみから解放される。生きている、命のよろこび。笑顔も歌声も響きわたる世界になる!
しあわせは、とても近くにありました。すごくカンタンなことでした。誰もができることだったのです。
本当に大切なことにブッダは気付きました。
よろこびで顔はほころび、うれしくてうれしくて大きく手を広げ、大空をあおぎました。
「ありがとう・・!!」
この気付いたことを伝えなければ!ひとりでも多くの人に、伝えたい。届けたい。しあわせのヒントを・・。
でも。
ちゃんと伝わるだろうか?
みんなの心に届くだろうか?
うれしさと不安が半分ずつ、ブッダの心の中をいっぱいにしました。
自分の心の中の確信が、これからのことを想像すると不安に変わっていきました。どんどんこわくなってしまいました。
そんなとき、神さまの声がきこえました。
「大丈夫。あなたの気付いたことは、生きているすべての人のためになること。勇気をもって、伝えていきなさい。」
よし、決めた!伝えるぞ。
不安がまったくなくなったわけではないけれど、それでも進まなきゃ何も変わらない。動かなきゃ、誰にも届かない。
伝えよう、このしあわせの種。
みんな持っているんだよって。
みんなしあわせになれるんだよって。
ブッダはまた、旅に出ることを決めました。
今度の旅は、6年前の旅とはまったくちがいます。どこかにある「こたえ」を見つけようと遠回りするのではなく、今回の目的はハッキリとしています。
人々に「しあわせに生きるヒント」を伝えること。ブッダは、人々のいる村へと歩いていきました。
5. キラキラまぶしいブッダの存在
ブッダは、訪れた村でお話をはじめました。ブッダの声に耳をかたむける人が、たったひとりでも、たくさんでも、同じようにみんなの顔を見ながら、やさしくお話をしました。
またたく間にブッダのお話の内容やブッダ自身の魅力に、たくさんの人が集まるようになりました。
苦しみにおぼれながら、どうにか生きていた人たちにとって、ブッダはひさしぶりに明るく光を照らしてくれるお日さまのような存在です。
キラキラを届けてくれる、まぶしい太陽。どこにいても、どんな人にも、まっすぐな光は届きます。
「わたしなんて・・・」ってすねていた心にも、「なんだよ、あいつ」ってイガイガしていた心にも、すっかり閉じてしまっていた心にも、ブッダの光はスーーッと入りこんでいきます。
みるみるうちに、人びとは自分の中に光を取り戻していきました。
「しあわせ!」
「生きているって、すばらしい!」
「ありがとう、ブッダ・・!」
はじめのうちは、元気になったことうれしいと思うだけでしたが、だんだんと心は変わっていきます。
「ブッダに、何かお礼をしたい」
「あの方のために、わたしも何かしたい」
「もっとたくさんの人に、あの方の話を聞いてもらいたい」
いつの間にか、ブッダの存在がみんなの「生きる意味」になっていました。
ブッダのためにつくった食事をはこぶ人。明日も明後日も、ブッダのもとに来ようと足を運ぶ人。ブッダの伝えたことを広めようと、群れる人たち。
みんなの行動はブッダに何かすることで、自分がしあわせになれる、まるで神さまを崇めるようなものになっていたのです。
「ちがうんだよ!ダメだよ!」
人々の行動は、ブッダがそれまで伝えていたこととはちがうものだったのです。
「わたしは、神さまではないんだよ。
崇めたり、わたしのために生きちゃダメなんだよ。」
ブッダは、何度もくりかえし言いました。
自分の存在を神さまのように「大きな存在」にしてしまったら、何も変わりません。全知全能の神さまの存在は、依存を生んでしまう。なによりも大切な自分自身から、目を反らすことになってしまう。
答えは神さまがもっているものでもなく、神さまがみんなをしあわせにしてくれるわけでもない。
自分のしあわせは、自分しかつくれないのです。
どこかにいるかもしれない神さまよりも、
ここに生きている自分の声を聞くんだ。
「わたしは、ただひとりの人間です。みんなと同じ、人間です」
伝えても伝えても、うまく届かないもどかしさがありました。
ブッダのおはなしを聞いて、人々は心いっぱい感動するけれど、肝心な「自分を生きる」ということはなかなか実践にはうつせません。自分を生きることよりも、素晴らしいブッダのために何かをする方がずっとカンタンでラクなものです。
それでもブッダは諦めず、必死に伝え続けます。ひとりの人間として。ひとつの命を、せいいっぱい生きました。出会う人それぞれに一番伝わりやすいように、いろんな言葉やたとえ話をつかいながら、お話をつづけました。
6. 神さまじゃないんだよ
常にそのとき、そのときを生きたブッダですが、心配事もありました。
死ぬことです。とくに、自分が死んだあとのことを想像すると、とても不安になりました。
そして、釘をさすようにみんなに伝えました。
「わたしを崇めてはいけません。わたしの像をつくってはいけませんよ」
どうか、自分が死んだあとも、ひとりの人間以上の存在にしないでほしい。
だれの上にも立っていない、ただひとりの人間だということを、くりかえしくりかえし伝えました。
どんな人も同じように大切なことに気づける。
どんな人でも同じように心からしあわせを感じることができる。
でも、もしみんなと同じひとりの人間である自分を、神さまのようにあがめてしまったら、みんなと「しあわせ」の距離はどんどん離れていってしまう。
それだけはダメなんだ。
みんな、しあわせになれるんだから。
「ねぇ、みんな。わたしは人間なんだよ。それを忘れないでいてほしい。」
ブッダは、大切なことをいっぱい言い残して、永遠のねむりにつきました。ブッダの死は、人々の心にぽっかりと穴をあけました。
「ブッダに会いたい・・・!」誰もがそう願いました。
ブッダが伝えたとてもシンプルで誰もができる「しあわせへの道」は、カンタンゆえになかなか行動にうつせず、人々はまたあの苦しみの中に戻ってしまうのかと思うと、怖くなりました。
もう一度、ブッダに会えたら。
もう一度、光を照らしてもらえたら、今度こそ。
「ブッダに会いたい」
神さまのようにあがめちゃダメだよ、像はつくっちゃダメだよ。そういっていたブッダの声よりも、ついにみんなの「会いたい」が勝ってしまいました。
それが、仏像のはじまりです。
人々が生きるのに必死で、苦しみだけではない世界を教えてくれたブッダにいつでも勇気をもらえるように願いをこめて。
つい道を見失いそうになったときにも、大きな光で道を照らしてもらえるように願いをこめて。
ブッダは自分が死んだあと、こうなってしまうことがわかっていました。
強い心をもたなければ、自然と誰かに頼ってしまうこと。
自分をみつめるよりも、神さまに手をあわせる方がラクなこと。
だれよりも、人間の弱さを知っていました。
だからこそ、くりかえし言いつづけたのです。
「ただ、生きるんだよ」
「あなたを、あなただけを、しっかり生きるんだよ」